「should be fair」の米国人
ずいぶん間が開いてしまいました。このところ試験勉強が忙しくてなかなかブログを書く時間が取れないのです。平日は朝2時間半、昼1時間、夕方30分、合計4時間。週末はもっと時間が取れるかと思いきや、朝昼晩の料理とその買い物に時間がとられてやっぱり4時間くらいです。余談ですが、この冬の我が家人気レシピは「自家製炭火焼きキリタンポ」。これを作るだけでもたっぷり1時間はかかるのですが、それだけの価値はありますヨ!。朝食に野菜たっぷりラーメン(キャベツ丸ごと1個入り)、昼食にパエリア(米5合)作って夜がキリタンポ鍋(米5合)になったりすると、それだけで料理に3時間。食べてる(飲んでる)時間と買い物の時間を加えると週末は一日に7時間は料理に向かい合ってる勘定になってしまうのです。洗濯も掃除もしないでこれですから、専業主婦は大変だぁ。
さて、今回は米国です。
日本人やマレー人と比較した時の米国人のイメージと言えばまずは「肉食」。
彼らは昨日今日肉食になった訳ではなく、先祖代々肉食であり、即ち、狩猟民族だということです。これが単なる嗜好の違いではなく、本質的かつ根本的な違いであるということは、両者の腸の長さの違いに端的に表れています。肉は消化の過程で毒素を出すため腸は短い方がよく、欧米人は4m。これに対し、穀類を食べる日本人は7mと言われています。身体の構造が根本的に違うのですから、脳の機能(≒価値観)が多少違っても当然だと思えますよね。
そして、農耕とは違い、「肉」を得るのは個人の身体的能力に大きく依存しますから、個人主義が基礎的な価値観になります。 又、土地=不動産の価値は少なく、獲った獲物=動産に対する所有権が生活の基盤となる概念になります。獲った獲物の所有権は、一人で取った獲った場合は「単有」、複数で獲った場合は持分概念があり分割可能な「共有」となります。分割可能であり、交換可能であるというところが、「合有」なり「総有」を基礎とする農耕文化と大きく違うところですね。
こういう米国人にとって大切なキーワードは「フェアー」。物々交換が基本ですから、その交換場での「時価」に基づき、刹那的な等価交換取引をフェアーに行うことが求められ、その意味での「フェアー」さが大切になります。「その場」でのフェアーさが重要なのですから、「将来」だとか「お家の為」だとか「会社の為」という価値にはそれほど重きを置かれません。株式会社への出資に対する見返りも、日本の場合は伝統的に成長(株価)であるのに対して、米国の場合は刹那的な「配当」志向が強いのもその帰結のひとつでしょう。
一方、収益力(獲物を獲る力)はそもそも生まれながらにしての「実力=体力」に基づく訳ですから、これでは最初から「アンフェアー」が生じます。始まりがアンフェアーなのに、交換経済を成り立たせるために「フェアー」の概念は捨てられない。この矛盾を補う為に、宗教が生まれ、キリスト教では「愛」を、イスラム教では「喜捨」という概念で、この「アンフェア」な始まりを修正するようになったのではないかと考えられます。
「愛」とか「喜捨」といった概念の背景にはこのような事情があるため、始めから「same boat」に乗っている運命共同体の日本人には理解しがたい概念です。
例を取ってみれば、狩猟民族は、力のある成人が獲った獲物を、力の無い(狩猟能力のない)老人に分け与えるときには、それを正当化する理由付けをしなければなりません。その理由付けが「愛」であり「喜捨」なのではないでしょうか。
これに比較し、農耕の場合は、力の無い老人でも生産に対して「直接」の寄与が出来ます。農耕は重労働ばかりではなく、老人でも出来る軽労働があるからです。「直接」の寄与に対する報酬として収穫物を分け与えればよく、そこには敢えて「愛」というような正当化のための説明はいらないのです。
いずれにしても、米国人にとっては、世の中はフェアーでなくてはならず(should be fair)、人間関係も個人主義に基づいたフェアーな取引を保証するために、一定の距離(arm's length)を置いたものになるのです。
「脳のノモス」では、この「フェアー」という概念の普遍性にまず疑問を呈します。そして、始まりが「アンフェアー」であることに注目します。その意味で、次回は陸地取得がどう行われたということについて考察してみたいと思います。

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